イノセンス(2004)

ジャケット
©2004 配給:東宝 監督:押井守

免疫としての自己意識、アレルギー

 人類は言語や数字を発明し、それによって記憶能力と論理能力を飛躍的に高めてきました。のちには文字を発明し、メモやテキストによって知識を継承し科学を発展させます、こうした知性は現状では人間だけに備わったものでしょう。では、そんな知性的な私たちは動物よりも高尚で健全な存在なのでしょうか、知性があることはそれがない存在よりも絶対的に優れているのでしょうか、もし人間以上の存在があるのならそれは何か、『イノセンス』はそんな問いを扱う映画です。

 『イノセンス』の主人公バトーは元は人間でありながら現在は全身を機械化され、脳もコンピュータと接続された電脳という器官になっています。この世界では他にも、全身が生身の人間とゴースト(魂、自我)のないロボットが労働し、バトーのようなサイボーグと共存しています。公安警察であるバトーは、暴走して殺人を犯したロボットと対峙しますがそのロボットは「助けて」という音声を発して自爆を図ります、しかしサイボーグであるバトーには暴走したロボットが哀れに思えたのか、もしくは縁起でもない不気味さがあったのか、弾丸によってロボットの機能を停止させました。
sf10

 この場面、設定を知っているならともかく、端からみたらやっぱりオカルトです、動く人形が「助けて」なんて言いだしたら誰だって怨霊を思い浮かべるでしょう。『イノセンス』ではこのオカルト事件から、人間・サイボーグ・人形の関係を考えていくことになります。

 人類は知性を持つとともに死を恐れ宗教などで恐怖を克服しようとしますが、死の絶対性を軸にした教義やタブーの中でその意識はどんどん入り乱れ、物理空間の出来事をそのまま認識することができなくなっていきます。呪いや怨霊を恐れる動物はいませんが、人間には自然現象が人の恨みや神の怒りに見えるんですね、ビビった状況では縄を蛇と見違えるようなものでしょうか。ただでさえ視力や聴力によって認識に制限がかかるのに、それらの意識によって更に認識は不完全になってゆく。ハッカーのキムは、その種の完全さを持つのは完璧な意識を持つ神か、意識を持たない人形もしくは動物においてしか実現しないと語ります。

 不謹慎な話になりますが、生前に腰の曲がったお年寄りも、亡くなったあと寝かせると背筋が伸びて身長が高く見えるそうです。ちなみに、生前は寝ていても体が硬い人はそのままのことが多いようです。つまり、死後硬直までは意識がなくなったことで体の制約がなくなり、骨格がありのままのパフォーマンスを発揮するのでしょう。まぁ立つとなったらまた話が変わるんでしょうけど、意識によって体の状態が変化するのは気分や緊張状態による声や運動への影響を考えれば、誰にでも思い当たるものではないでしょうか。長く人と関わっていれば人の身体意識からある程度性格も予測できるようになります、半分は思い込みですが、ノタノタのっそり動く人が性格は快活だったり、せかせか動きまわる人が性格はゆったり大らかなんてことは見たことがありません。心身どちらが先に発生しているのかをここで考えるのは不毛ですが、それらに相関があるのは確かな気がするのです。

 そしてそんな人間には、鹿や魚のような透明感のある身体意識はなかなか真似ができません。意識を持つことで心身が濁った存在が、人形や動物に適う存在にはなれないというセリフは理解できる部分もあったのです。ただ、私はキムの言う「人間はその姿や動きの優美さに、いや、存在においても人形に敵わない」というセリフの「存在においても」の意味がイマイチよくわからないので、もし主観的な価値という意味とすれば同意にまでは至りません。

 人間の意識のルーツが死への恐怖だと仮定すると、おそらくは生きている間ずっとそのルーツに意識が向かないよう指向を続けるわけです。キムが言うには人形の不気味さとは、人間と同じ形をしたものなのに命がない姿を見て、または人形なのにゴーストがあるかもしれないと想像することで、人間もまた人形と変わらないのではないか、つまり人間にはそもそも命なんかないんじゃないかという疑惑によるそうです。これは上の指向からすれば耐え難いストレスです。私たちは確かに生きているしこれからも死なない、無敵のボディと完璧な認識機能があれば完全な存在になり、死を超越できるはずだ。現代もそうかもしれませんが、劇中ではそんな経緯で身体の機械化と電脳化の技術が発展していきました。しかし、その発展の先にあったのは人間の人形化です、死から離れようとして結局は死と同化することになるわけです。同化は超越にはならず、存在としてあやふやになっただけで人間と機械、生物と無生物、生と死という対比の中で根源的な恐怖からは離れられません。手りゅう弾でもビクともしない体とありがたい名言をいくらでも検索できる電脳があっても、バトーは自らの存在について相当ナーバスになっています。
sf11

 キムに電脳をハッキングされ、何度も幻覚(疑似体験)を見せられたあと、相棒のトグサは現実に戻れたのかどうか訝ります。その時のバトーのセリフが面白いので、長いけど引用します。
「思い出をその記憶と分かつ物は何もない。そしてそれがどちらであれ、それが理解されるのは、常に後になってからの事でしかない。主時間はセーブ不能だから辛いな。電脳化して外部と記憶を共有化した以上、必ず付いて回るツケだ。家で待ってる女房や娘が本当に居るかどうか、いやそもそも自分は未だに独り者で、どっかの部屋で家族の夢を見ているんじゃないか。それを、確かめてみたくはならないか?」
 状況的な意味では、電脳化によって記憶や情報を外部(ネットや記憶メディア)と共有した結果、どれが自己体験でどれが外来なのかがわからなくなるし、実際の時間はとどめておけないから記憶が本物か確かめたいよね、ということでしょうか。個人では持ちえない情報量と“みんなの意見”によって得た客観的認識能力、それは無限の意識をもたらすはずが、実際には自己と非自己を曖昧にして記憶の時間性を破壊しました。間違えるときもあるでしょうが記憶というのは本来時間性があります、「日中最高気温22℃」という情報だけでは季節が判断できません、ですが夏が終わった記憶があれば秋だと判断できます。しかし、そこに冬が終わった記憶を植え付けられたら春だと勘違いするわけです、しばらくすれば気温が下がっていくので間違いに気付きますが、そんなことが続けば混乱してしまう。「春が終わった記憶があるけど寒くなっていく気がする、カレンダーは9月だ、おかしいな、いつカレンダーめくったんだっけ、というか夏が終わった気もする、じゃあ俺夏になにしてたんだっけ」「夏が終わったつもりだったけどカレンダーは5月だ、キャンプにだっていったのにどうなってんだ?偽物の記憶?じゃあそれ以前は本物なの?わからない?俺はどうやって生きていたんだっけ?今作られたんじゃないの?じゃあどれが本物なの?」という感じで、時間性と同一性が破壊されると自分の起源もわからなくなって、生きた心地がしないのではないでしょうか。それはやはり死を連想するもので、自己意識をもった人間には耐えられるものではない。体が生身で、傷や形状の特徴で記憶の正誤を判断できれば幾分マシかもしれませんが、人間には時間を感じる器官がないので、それを補完するための心や記憶がねつ造されるというのは致命的でしょう。意識のない存在からすればそれはただの情報なのですが、人間は広義での死(個性や自尊心の消失を含める)を恐れる以上、自己と外部の記憶を分けたがるためやはり制約がかかってしまうのです。でも少佐はその制約を捨てて均一なマトリクスの向こうにいっちゃいましたね。
sf12

 電脳という特殊なデバイスを想定しているので馴染みがないように思えますが、記憶や情報の外部委託というのはコンピュータはもちろん、書籍やメモ、それを編む文字や言語によってすでに行われています。それによって私たちは他人の思想を取り込んだり言語によって概念を共有している、それを取り入れるまでの思想や概念をはっきり記憶している人はいないのではないでしょうか。さすがに体験のねつ造は難しいですが、警察では事件目撃者に聴取するとき記憶のねつ造をしないように余計な言葉を口にしません、また、食べ物の味は実際複雑な情報でしょうが、その味を言語で思考した場合言葉の意味に沿ってかなり簡略化されて記憶するでしょう。言語というデバイスによって高い記憶と伝達の能力を獲得しましたが、それによって思想や概念が言語の意味に制約されたり、自分の思想と他人の思想との境界があいまいになる、観念や記憶を外部から操作されるなど現在でもいくらかツケを払うことになっています。ネットによって情報へのアクセスがスムーズになった現在では、劇中の問題にもすでに片足を突っ込んでいる状態ではないでしょうか。

 この映画のテーマは単なる絵空事ではなく、空想科学を使ってそうした問題を掘り下げているのが面白いところです。押井監督の意図を汲み切ることはできませんがこうして書いて整理してみるとスッキリしました。ややこしいテーマですが、よくできたSFは思考の材料になって頭がよくなった気分にさせてくれるので好きです。劇中では問題だけが残され、私たちもネットの発展によりこれからどういうツケを払うことになるのかよくわかりませんが、ネットが人間をどのように変えていくのかは中々見物ではあります。できれば前時代とこれからの良いとこどりをしていきたいですね。
 以上、SFについてでした。
inserted by FC2 system